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PGH キャップ&フローレンス・ガーランド DK12

ローラの学校の先生だったフローレンス・ガーランドは、1880年当時、18歳で、デ・スメットの公立学校の最初の教師でした。その学校は資材も労働も、町の人々のボランティアによってたてられたもので、先生の給料はひと月に20ドルでした。 フローレンスは1887年に材木商だったチャールズ...

2015年5月30日土曜日

PGH キャップ&フローレンス・ガーランド DK12

ローラの学校の先生だったフローレンス・ガーランドは、1880年当時、18歳で、デ・スメットの公立学校の最初の教師でした。その学校は資材も労働も、町の人々のボランティアによってたてられたもので、先生の給料はひと月に20ドルでした。
フローレンスは1887年に材木商だったチャールズ・ダウレィと結婚して、数人の子どもを設けました。1931年にデ・スメットを訪れたワイルダーとアルマンゾと再会したときには、「長い冬」の思い出話をしています。
彼女は夫を見送ってから数年後に、家族に見守られながら、1935年に79歳で死去。お墓はデ・スメットにあります。

「長い冬」に、アルマンゾと一緒に小麦を探しに行ったキャップの本名は、オスカー・エドモンド・ガーランドといいます。彼はフローレンスの弟で、1880年当時、15歳。ローラより二歳年上でした。最初、ローラはアルマンゾよりも、キャップに気になっていました。
 「長い冬」には、突然襲って来た猛吹雪の中を子どもたちが集団下校したときに、誤った方向へ行ってしまい、キャップが気づいて助けを呼びに行く話があります。これと同じ話は「パイオニアガール」にもみられます。
キャップは1883年に、デ・スメットの東にあるクラーク郡に姉妹と共に開拓農地を申請しましたが、1891年11月に二十六歳で、脱穀機の爆発事故で亡くなりました。

二人とも幼いときに父親を亡くし、母親は42歳のときに三人の子どもを連れてデ・スメットに移住。 母親は農婦と記録されていますが、下宿屋を開いて生計をたてていました。


フローレンスのお墓はこちらから
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2015年5月24日日曜日

PGH ジョージ・マスターズ DK11

ジョージ・マスターズは、「小さな家」シリーズでは描かれていませんが、「パイオニアガール」には幾度か登場します。彼はローラの学校の先生だったサム・マスターズの息子で、ネリー・オルソンのモデルの一人だったジェネヴィーブ・マスターズの兄弟です。「長い冬」のあった1880年当時、二十八歳で、鉄道会社が経営している店で働いていました。
妻のマギーは二十二歳で、両親はスコットランド人でした。インガルスは明朗なマギーは好きでしたが、父親にそっくりのジョージは、嫌いでした。

「長い冬」では、インガルスが家族だけで厳しい冬を乗り切ったと書かれていますが、実際には、ジョージとマギーも同居していました。

ジョージは西部の仕事へ行く途中、妻のマギーを置いて欲しいと頼むために、デ・スメットのインガルスの家へ立ち寄りました。  インガルスの家へ現れたとき、マギーは身重でした。彼らはできちゃった婚で、ウォルナットグローブで子どもを産んで、マスターズの家族に恥をかかせたくないという、マギーの配慮からデ・スメットへやってきました。彼らの息子アーサーは、長い冬が始まる前に、インガルスの家の二階で生まれました。取り上げたのはキャロライン・インガルスとガーランド夫人でした。キャップの母親です。彼はデ・スメットで生まれたいちばん最初の赤ん坊となりました。

冬が近づき、鉄道会社の仕事もなくなり、ジョージは引き上げるためにマギーを迎えにインガルスの家へ寄りました。そうしているうちに、あの長い冬が始まったのです。追い出すわけにもいかず、マスターズ夫妻と赤ん坊のアーサーは、インガルスの家で厳しい冬を過ごしました。

ジョージとの同居は不愉快だったようで、彼はとうさんの外仕事も手伝わず、沢地に干し草を取りにも行かず、干し草をよることもしませんでした。とうさんをはじめ、町の人々は、ワイルダー兄弟の家などに集まって、情報を仕入れたり、とりとめのない話で気を紛らわしていましたが、ジョージはいちばん暖かい場所に陣取って動こうとせず、食べものが乏しくなってもがっついて食べていました。こういう厳しい状況のとき人間が試されると、「パイオニアガール」は述べています。

「長い冬」にはマスターズは登場しません。なぜマスターズを省略したのでしょう?
マスターズを入れるなら、ありのままを書かなければならないし、そうすれば作品を傷つける。いい人に描くと、マンリーの好意を無駄にすることになるから、作品が面白くなくなると、ワイルダーはレインに説明しています。

ワイルダーはジョージにそうとう腹が立っていたようで、私だったら外に放り出すのに、とうさんはそうしなかった、とレインに話しています。そんなワイルダーの気持を代弁する記述が、「パイオニアガール」にみられます。
長い冬の間、次第に、皆、気が立っていました。そんなある日、ローラはジョージに「充分に温かくないと思うなら、干し草をよればいいでしょ。あたしは疲れているんだから」と言ったそうです。ローラらしいですね。







2015年5月18日月曜日

PGH インディアンの警告 DK10

「長い冬」にはインディアンが厳しい冬を白人に警告する話があります。七年ごとに厳しい冬がやってきて、二十一年目の冬がいちばん厳しい、その冬は七ヶ月続くと白人移住者に告げて、とうさんが噛み砕いて皆に説明するくだりです。
「パイオニアガール」には、とうさんの説明はありませんが、インディアンの警告の話は登場します。

この警告話はまったくの創り話ではないようです。「長い冬」に描かれている厳しい冬は1880-81年ですが、それ以外にも、先住民が天候の異変を警告する記録が、当時の新聞にいくつか残されているからです。1878年の一月のミネソタの新聞には、ミネソタに五十年近く住む混血のインディアンが、十二月は、これまででいちばん暖かかったと告げている記事があり、その三ヶ月後、老インディアンが六月と七月にミシシッピ河の氾濫で洪水になると予測していると、同新聞は報告しています。当時から先住民は、昔ながらの言い伝えや生活の知恵を、白人移住者とシェアしていたようです。


「小さな家」のインディアンの描写は、差別や偏見がしばしば問題になるため、ヒルは注釈をつけていて、以下のようにワイルダーを弁護しています。

「長い冬」の中でワイルダーは、インディアンに文法的に正しくない英語をしゃべらせているため、現代の読者には、先住民を軽んじているようにみえるかもしれない。けれども、とうさんは彼に敬意を示しており、インディアンの知恵と知性が強調されている。現在の読者にはステレオタイプのインディアンに映るかもしれないが、実のところ、それは肯定的にものごとを捉えるワイルダーの創造性によるもので、先住民を侮辱しているものではない。「ワイルダーは他の民族を画一的にみているという見解は、ある民族を否定的なステレオタイプにあてはめることに、ワイルダーが疑問を呈しているのを否定することになる」とドナ・キャンベルは指摘している。


1990年代はポリティカル・コレクトの時代で、「小さな家」に先住民の描写が問題になり、多くの人がワイルダーの弁護を試みました。ヒルの注釈はワイルダー側にたつ典型的な弁護の一つです。ヒルの主張はもっともで、ジョン・ミラーのいうように、ワイルダーの生まれそだった時代背景を考慮すれば、批判よりも、当時の差別や偏見にとらわれなかった彼女を賞讃するべきだというのも一理あります。


ただワイルダーを弁護している人々は、白人の枠組みの中でしかものごとを考えていない人が多いのも事実です。 彼らにとって西部開拓は「明白なる神意」であり、インガルスのように神の御心を遂行した者は善良なる人々です。アメリカの基盤となった西部開拓を否定することはありません。アメリカ建国そのものを否定することになるからです。
そこに先住民側の主張との食い違いがあります。ワイルダーを弁護する人々は、その食い違いに気づいていないか、目をそむけているか、中には関心のない人もいるようです。


もしも一般の読者や学者が、先住民の痛みがわかっていたのなら、あるいはわかろうとしていたなら、1990年代に先住民が怒りの声を上げる前に、先住民の視点から「小さな家」を読む努力をしていたと思うのです。そうしていたのなら、読者や学者によるワイルダーの弁護は十分に説得力があります。でも、そのように努力していた人々は、何人いるのでしょう?

 
先住民が怒りの声をあげても、彼らはワイルダーを弁護をするばかりで、自らの努力や配慮を怠っていた反省もみられません。学者も例外ではありません。そういった彼らの態度を糾弾した論文もあるほどです。
最近の若い世代のアメリカ人は先住民の視点も含めて「小さな家」を読もうと努めています。それは1990年代を経て大きく変わりました。その点は大いに評価するべきでしょう。 はたして先住民への配慮を怠ったってきた反省を、彼らが口にする日は来るのでしょうか? もしもその日が来たら、先住民側の怒りも少しは和らぐと思うのですが。


 先住民側が指摘するように、ワイルダーも白人の枠組みの中でしか「小さな家」を執筆していません。でも、そうするしかなかったのでしょう。西部開拓を否定したら、彼女自身の人生を否定することになるからです。そうすれば「小さな家」は執筆できませんでした。
ただ、その枠組みの中で、ワイルダーはささやかながらインディアンへの配慮をしています。現在の読者からみれば、物足りなさを感じたり、偏見や差別と映るかもしれません。でも、ワイルダーの生まれ育った1860年代後半〜80年代と、彼女が執筆した1930年頃のミズーリ州の時代背景を考慮すると(彼女はミズーリに暮らしていた)、時代の偏見や差別にとらわれない、しなやかな人物像が浮かんで来ます。


ワイルダーは先住民の苦悩を知識として知っていただけではなく、わかっていたように思えます。「もしも私がインディアンで、この地を立ち退かなければならなくなったら、白人の頭の皮をもっと剥いだだろう」と日記に記しているからです。
日記は公に発表するのとは違います。誰も見ない日記には本音しか書きません。


「パイオニアガール」のかあさんはインディアンを嫌っていないのに、「小さな家」のかあさんはインディアンを嫌悪する人物に書き直されています。日記に書かれたワイルダーの本音に気づいたとき、かあさんをそのように描いたのは、先住民差別への問題提起だったのではないか、と思うようになりました。     
注釈からはヒルがどのような考察を経て、先の結論に達したのかはわかりません。一部の読者や学者のように、「私の大切なローラを傷つけたくない」という、ただの自己防衛かもしれません。
でも、「小さな家」の否定的なインディアンの描写は、ワイルダーなりの民族差別への疑問提起だったととらえるのなら、「肯定的にものごとを捉えるワイルダーの創造性によるもので、先住民を侮辱しているものではない」というヒルの見解に同意します。


西部開拓のすばらしい体験を執筆しながらも、ワイルダーは彼女なりに良心の呵責を抱えていたのかもしれません。だから、「小さな家」の中で、大好きなとうさんを二枚舌に描いたのかもしれません。ある人々は、それを偽善と呼ぶでしょう。そう言われても仕方ないと思います。
ただ、ワイルダーは彼女のできる範囲内で、出来る限りのことをしたのではないでしょうか? もしもそうならば、現在の私たちよりも、先住民の立場に寄り添えって、遥か先を見据えていたといえるでしょう。