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PGH キャップ&フローレンス・ガーランド DK12

ローラの学校の先生だったフローレンス・ガーランドは、1880年当時、18歳で、デ・スメットの公立学校の最初の教師でした。その学校は資材も労働も、町の人々のボランティアによってたてられたもので、先生の給料はひと月に20ドルでした。 フローレンスは1887年に材木商だったチャールズ...

2014年1月20日月曜日

PG16 スウェーデン

「大きな森の小さな家」には、ローラとメアリーが近隣の家でクッキーをもらう話があります。二人で一枚のクッキーを半分ずつ食べて、もう一枚はキャリーに持って帰るけれども、何か公平ではないな~と思うというくだりです。クッキーをくれたピーターソン夫人はスウェーデンからの移民で、ローラたちは英語で、夫人はスウェーデン語で話すけれども、ちゃんと通じました。


プラムクリークで懇意にしていたお隣のネルソンさんもスウェーデンからの移民で、ローラは同じように話していて、お互いに理解できました。牛の乳しぼりを教えてくれたのもネルソンさんで、ローラはスウェーデン語なまりの英語をはなしていてとうさんに笑われていました。


ワイルダーが暮らしていたミズーリ州マンスフィールドはオーザクス丘陵と呼ばれ、今でも保守的な地域として知られています。ワイルダーはそこで人生の大半を過ごしました。
そのワイルダーは異質の文化背景をもつ人々に対して、柔軟性がありました。サンフランシスコを訪れたとき、ある女性たちが日本人や中国人や黒人を蔑称で呼び、「彼らのいるサンフランシスコは嫌なところだ」と話しているのを聞いて、ワイルダーは彼女たちに批判的な意見を述べていました。


保守的な土地で過ごしたワイルダーが、どこでそのような柔軟性を身につけたのか不思議でしたが、小さな家シリーズをきちんと読めば、ヒントがあるようです。そういえば、プラムクリークの牛飼いのジョニーも移民で、英語がまったくわかりませんでした。彼の昼寝のせいで、牛に干し草があらされてしまった話も、ワイルダーは温かな視線で描いています。アメリカに住んでいるのに英語もわからないのか、といったニュアンスは感じられません。移民に囲まれて育ったワイルダーは、自然にそういった柔軟性を身につけていたようです。