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PGH キャップ&フローレンス・ガーランド DK12

ローラの学校の先生だったフローレンス・ガーランドは、1880年当時、18歳で、デ・スメットの公立学校の最初の教師でした。その学校は資材も労働も、町の人々のボランティアによってたてられたもので、先生の給料はひと月に20ドルでした。 フローレンスは1887年に材木商だったチャールズ...

2015年5月1日金曜日

PGH ブラウン牧師 DK7

ホイト医師の例にもれず、医師のモラルが問われるのは、どこの国でもいつの時代でも変わりません。それは聖職者にも言えるようです。


ローラとアルマンゾの結婚式をあげたのは、ブラウン牧師でした。「小さな家」の中でワイルダーはブラウン牧師を好ましい人物に描いていませんが、「パイオニアガール」でも品がない、粗野だ、髪はぼさぼさ、爪も真っ黒で不潔だと、辛辣に描いています。


その理由の一つが、ブラウン牧師の嘘言にありました。彼がデ・スメットにやってきたとき、オルデン牧師からの紹介状を持っていて、この地で教会を組織するためにやって来た、と話していました。とうさんもかあさんも、オルデン牧師があんな人を寄越すはずがないと思いながらも、オルデン牧師の手紙を持っているので、組合教会と日曜学校の設立に協力しました。

ところがある日、そのオルデン牧師がデ・スメットに教会を組織するために現れたのです。オルデン牧師の話によると、ブラウン牧師が西部に開拓農地の申請に行くと聞いたので、親切心からとうさん宛に紹介状を書いただけで、ブラウン牧師はすでに退職しているので教会を組織する権限はありませんでした。
 けれども、オルデン牧師はことを荒立てたくないと、ブラウン牧師の好きにさせてデ・スメットを後にしました。

エドワード・ブラウンは、妻のローラ、養女のアイダと共にデ・スメットに移住して、1880年6月に第一組合教会を設立しました。学校の教師、弁護士を経て牧師となり、ウィスコンシン、オハイオ、ミネソタの教会を受け持ってからダコタへ移住。移住した当時、彼は六十五歳で、その四年後に退職して、1895年に亡くなりました。彼は奴隷廃止論者で処刑されたジョン・ブラウンのいとこだと言っていたそうです。

「小さな家」シリーズでも「パイオニアガール」でも、ローラはブラウン牧師の養女だったアイダと親しくしていました。でも、「パイオニアガール」では、ブラウン牧師とブラウン夫人のことを嫌いだと、はっきりと述べています。ブラウン夫人は教会関係の執筆活動をしていたこともあり、あまり家のことや身なりをかまわなかったようで、ワイルダーはあるエッセイに、ブラウン夫人のだらしなさについて書いています。


ブラウン牧師の墓はこちらから